仕事の関係でもうすぐ日本に帰ることになったので、最近ロンドン近郊の街をちょこちょこ旅行しています。
こうした場所で博物館を巡っていてよく目にするのが、奴隷貿易の歴史です。そう、、同じ人間でありながら、奴隷として生まれる人たちが、かつては世界のあちこちで当たり前に存在していたのです。
生まれながらにして異なるスタートポイントに置かれる人たち
ロンドンから電車で西に約2時間いったところにあるBristolという街は、かつて奴隷貿易の港として栄え、今でもWhiteladies RoadやBlackboy Hillといった地名が残っています。奴隷解放が行われてから1世紀半以上が経っていますが、それでも当時教育も財産もなく身一つで人生をスタートしなければならなかった人たちとそうでなかった人たちの間の差が完全に埋まっているわけではありません。
平等、不平等といった概念について考えようとした時に私の頭に浮かぶのは、このように「生まれながらにして異なるスタートポイントに置かれる人たちがいることについて、どう考えるか?」という問いです。
現代社会においてスタートポイントが異なる要因としては、身体的障害や家庭環境、お金など様々なものが考えられます。
そして、こうした状況に置かれた人たちは、自分の必要とするものを得るために、それ以外の人たちの何倍も努力をしなければならなかったり、ギャップを埋めようとする過程で起こる摩擦により、心に多くの傷を負ったりすることがあります。
さて、今回ご紹介するのは、Baratunde Thurston, How To Be Black (Haper Paperbacks, 2012) という本です。
アフリカン・アメリカンの著者はワシントンDC出身で、幼い頃に父親を銃撃事件で失い、小学校時代は黒人の生徒が大半を占める学校で教育を受けた後に、Sidwell Friends School(オバマ大統領の娘もここに通っています)に進み、そこで初めて周りの学生が白人だらけの環境に身を置くことになります。その後、ハーバードに進学し、コンサルタントとして働き・・・というエリートとしてののキャリアを歩みますが、どこにいっても黒人であることはマイノリティです。
Twitter:https://twitter.com/baratunde
平等、不平等との付き合い方
そうした環境で黒人として生きることはどういうことなのか、ありのままの自分でありつつ、周囲とうまくやっていくためにどんなことが必要なのか、そんなことがユーモアを交えて綴られています。
たとえば、職場では、黒人であるということにより、自分の雇用主が人種差別をしていないことを示すための役割を期待される。よって、やたらと写真撮影に呼ばれたり、対外的なイベントに駆り出されたりする。黒人でない周囲の友人たちからは、おもむろに髪の毛を触られたり、時におかしな質問をされたりすることもあるけれど、いちいち細かいことを真に受ける必要はない。
でも、白人の友達と車で出かけようとして、自分が後ろの席に座ることになったら、「なんで僕は後ろの席なんだ!黒人だからか!?」なんていう人種ネタをジョークに使って笑わせるのはあり、だとか。
このように、周りの多くの人たちと違ったバックグランドを持つことで、同じ世界がそれ以外の人たちは全く異なる見え方をしているのです。
これは、別の例でも同じことが言えると思います。
たとえば、目の見えない私の友人は、黒板に書かれた文章を見えることを前提として話をしている人に対して、その都度「そこ何が書いてあるのか教えてもらえますか?」と根気よくたずねているのを目にします。
児童養護施設で育つ子どもたちは、そうでない環境で育った人たちに、「施設って何?親はどこにいるの?お小遣いは?」などと色んな質問をされたり、時には心無い言葉をかけられることもあるかもしれません。
社会の大多数の人たちと異なるスタートポイントに立つマイノリティたちは、そのギャップを埋めるために、他の人たちが時に全く気が付きもしないところで、色々と苦労するのだと思います。
だから、マジョリティの側にある人としては、少しでもそのギャップを埋められたら・・・と思うわけですが、じゃあ具体的に何ができるかというと、やっぱりまずは知るということなのではないかと思います。
彼らの目には、世界がどのように映っているのかをまず知ること。同じ世界に住んでいながら、立場が違うとどれだけ物事が違って見えるかは衝撃的です。
その上で、純粋な相手への興味を持ち続けるならば、彼らを悩ませる心無い言動や質問は大きく減るでしょう。そして、さらに知ることを続けることで、彼らが必要とするサポートがだんだんと自然に生まれてくるようになるのではないかと思います。
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